寺の歴史
延台寺とは
「延山直末の寺」として開かれた寺院
関ヶ原の戦いの前の年、慶長4年(1599年)、東海道を旅する身延山久遠寺第19代法主(ほっす)法雲院日道上人がここにあった草庵に一夜の宿を取られ、自らが開山となり「身延直末の寺」として開かれた寺院です。寺から20メートルほど坂を上ると、江戸(現在の東京)と京都を結ぶ東海道に出ます。
幕府が発行した絵地図には、その右角に「虎石」という名物の石が置いてあり、広重や北斎という人気画家も筆に残しています。
この石こそ、鎌倉時代の伝説の舞姫、虎御前(とらごぜん)の誕生のきっかけとなり、曾我兄弟の兄、十郎祐成(すけなり)の「身代わり石」と伝えられる御霊石「虎御石(とらごいし)」です。
寺の古文書によると、「この草庵は江戸に半里ほど寄った海岸に近い所にあった。法虎庵(ほうこあん)と称し、虎御前が兄弟亡き後、19才で尼となり、この石を兄弟とも思って大切に守り暮らした跡が、永禄年間(1558年頃)に今の所に移された」とあります。寺は江戸から明治にかけて3度大火に焼かれ、元の寺領も失って仮設の建物で忍んでいましたが、ようやく昭和57年(1982年)に本堂、書院、庫裡が再建され、以後、山門、水屋を再興し、平成16年(2005年)、法虎庵曽我堂と付属の納骨堂、動物墓苑も完成し、復興工事は完成しました。
[正月を迎える本堂]
毎年、年末に檀家有志による直径50センチの大しめ縄奉納が行われます。
曽我兄弟
当寺の大磯には鎌倉幕府の重要人物達がよく訪れ、虎御前はそうした人々に見事な舞を披露していました。その客のなかに曾我兄弟の親の敵、工藤祐経がいたのです。敵工藤の動静を探る兄弟も大磯に来ることとなりました。
いつしか兄弟の兄十郎と虎女は恋仲となりました。これを知った工藤祐経はある夜大磯の長者の屋敷に刺客を放ちました。兄弟を殺そうとしたのです。
曽我堂
法虎庵曽我堂にはご霊石のほか、虎池弁財天(平安時代)、兄弟座像、虎御前19歳剃髪之像、広重と北斎の浮世絵「虎ご石」、国芳作「夜討ち曽我」、広重作連作「曽我物語図絵」16枚、虎女舞姿、三浦左右衛門「五郎赦免願い状」等が展示、奉安されています。
― 彫 刻 ―
[ 本堂内の欄間彫刻 ]
本堂内の欄間には16枚の彫刻が納められ、中央にはお釈迦様の涅槃図(ねはんず)を日蓮聖人が房州安房の山頂から拝んでおられます。
左右4枚は天人の舞姿が、中央奥の内陣4枚はお釈迦様の生涯を、外陣6枚は日蓮聖人の生涯が納められ、私たちに人間としての生涯の大切さを教えてくれます。
本堂内の欄間彫刻16枚は平塚市在住の渡辺豊雲、明堂親子が8年がかりで原画から描き上げ、ケヤキの板に両面から彫刻し、完成させたものです。
お釈迦様涅槃図
母の愛の深さと、人間はいつか死ななければならない事を教えています。
お釈迦様のご生涯
ご誕生の際、「天上天下唯我独尊」ととなえられたお姿です。向かって左側の手前はお釈迦様が小さいとき、ご両親と田畑をご覧になり、小さな虫が土から出てくるのを発見したとたん、鳥が飛んできてそれを口にくわえ、飛び立とうとすると、大きな鳥が舞い降り、虫を加えた鳥ごと捕まえてしまうのです。
この情景にショックを受け、お釈迦様は命の尊さとむなしさを、そして、生きることの意味を考え始められたのです。向かって右は「お釈迦様出城の図」王家の地位を捨て、ご家族と別れ、修業の旅に出られます。その奥は「菩提樹の下での悟り」で、長い瞑想から離れ、人々を仏様の道に導く教えを広められます。
日蓮聖人のご生涯
正面左側から順に「ご誕生の図」日蓮聖人がご誕生の際には様々な奇瑞が現れたと伝えられています。「鎌倉での辻説法の図」鎌倉、比叡山で全てのお経を勉強された後、人々を救うのはお釈迦様が説かれた法華経だと確信され、毎日鎌倉の辻で多くの人々にその教えを説かれたのです。
「北条時頼公への立正安国論奏上の図」世が乱れ、天変地異が続く中、国は、人は法華経によってのみ救われると、立正安国論を説かれ、先の執権北条時頼公に奏上されたのです。「片瀬、龍口での打ち首に光り物の奇瑞の図」為政者の怒りに触れ、打ち首を宣告されたのですが、執行の直前不思議な光がさし、役人の刀が裂けてしまい、刑は中止となりました。
「佐渡流罪の図」佐渡島への流罪となり、多くの人が聖人を殺そうとしたのですが、多くがその弟子となったのです。「池上でのご入滅」体調を崩し、湯治のため常陸の湯に向かった聖人は東京の池上宗仲の邸でご入滅になられました。
61才のご生涯でしたが、その魂と教えは今日ますます多くの人たちの心に生きています。
天人の舞