暑くて暑くて、頭は全く働かず、「一体今年は秋が来るのだろうか」などとぼやいていたら、強烈な台風が次々と日本を直撃して、各地にはこれまでに無いような被害をもたらし、長期の停電だ、断水だ、と毎日「当たり前」に思ってきた公共サ-ビスがストップし、北海道には大きな地震が襲う事態。全道一斉停電。ふらふらになった頃、気がつけば「秋」はやってきました。


 6月から10月にかけて、実に様々なできごとがありました。皆様はいかがですか。まずはお元気でおられることを心から祈っております。


 東京池上に本門寺という大きなお寺があるのをご存じでしょうか。今から737年前、日蓮聖人が61才にして亡くなった場所近くにある日蓮宗大本山のひとつです。


 4月28日を中心に「千(せん)部会(ぶえ)」といって、たくさんのお坊さんが3日間にわたって法華経28品(28章という意味です)を全部様々な形で通読し、お釈迦様の教えをかみしめる行事があります。また、10月の日蓮聖人がお亡くなりになった日を中心に3日間、たくさんのお坊さんやお稚児さん、それに百グループ以上の「講中(こうじゅう)」が華麗な万灯を押し立て、太鼓を打ち鳴らし、まといを振って夜通し参拝する「お会式」という江戸時代以来盛んに行われてきたイベントがあり、15万人以上の参拝があります。


 どうしたわけか、7年ほど前から私が「法話をやれ」と命じられ、恐る恐る(ずうずうしくというべきでしょうか)冷や汗をかきながら、やらせていただいております。今回は、さる10月12日に行った「法話」の一部をご紹介してみましょう。


 1995年、阪神淡路大震災で6千人もの人々が亡くなり、多くの家が倒壊、消失し、高速道路なども倒壊し、鉄道、電気、水道など、普段当たり前に思っていた生活インフラがストップしてしまいました。


 あれから20年あまりたちましたが、その間に大きな地震だけで、2万人近くが亡くなった東日本大震災、熊本大地震、今年の大阪地震、それに北海道大地震が発生しました。


 この間、息つく暇もなく、日本列島には巨大・強力化した台風、竜巻や見たこともないような集中豪雨の連続。しかも、30年以内には80パーセント近くの確立で九州、四国から相模湾、東京までを壊滅させうる大震災が起こるというではありませんか。鎌倉時代の天変地異の再来でしょうか。私たちは天罰を受けるような事をしてしまったのでしょうか。


 先日、この10年ばかり前檀家になられた方が亡くなり、通夜、葬儀・告別式、火葬、繰り上げ初七日法要を務めました。この方とは檀家となって以来、直接お話しする機会がありませんでした。栃木県出身で東京の大きなホテルに就職、派遣されてハワイで英語の研修を受け、その後、結婚式場「平安閣」に異動。この平安閣が平安レイサービスという葬祭業に変わったそうで、まさに今の時代を生きた方でした。


 通夜の席に親族だけで40人。今時、何事でも親族間で相談し、その亡くなった方が「指令」を発して、それをまた具体的に役割分担を決める人がいて、と聞かされ、お元気なときにお話しする機会を持たなかったことを残念に思いました。


 現在は男性も女性も一端外に出れば独立した仕事人です。そのこと自体は自然な変化でしょう。しかし、職場には自分の相手よりも優れていたり、そう見えたり、優しく見える異性も結構いるのではないでしょうか。実は互いに社会人として真剣に仕事をしていれば、若いときに「恋いに陥った」と思い込んで結婚したときより、遙かに相手の価値を具体に深く知ることができる(できると思い込む)機会が増えています。


 そこに犠牲者、つまり子供があります。子供は親を選べません。


 そして、家には、特に都市の家からは仏壇が亡くなりつつあります。仏壇はご本尊のもとで、家族をご先祖と結びつけ、家族の毎日を守ってくれる大切な場所でした。親を思い、そのまたご先祖を思い、自分の命の源泉を自覚させてくれる大切な場所でした。東日本大震災のあと、被災地では自分の家を、仏壇を探し、先祖の位牌を探す人たちがたくさんいたそうです。生き残った人たちが助け合う事が自然に行われました。


 しかし、もし東京や大都市で大震災が起こったらどうなるでしょう。


 死ぬ事を忘れた時代の不幸。「親」や「家」に一生縛り付けられている時代は終わりました。成長すれば故郷を離れ、親と離れ、子供を作り、子供が学校を出るまでは必死で世話し、就職すれば「はいそれまでよ」でも、子供たちは自律できているのでしょうか。


 親との接触が薄れ、やがてそれは自分自身に振りかかってくるのです。


 「人生は自分だけのもの」などというインチキな考えが広がってくると、糸の切れたタコのように人生をふらふら漂う人も増えてきました。


 一体、「自分の人生って何のためにあるんでしょう」もう一度真剣に考えましょう。


 お経には釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)、つまり仏様であるお釈迦さま(16人の王子様の一番末っ子、阿弥陀如来(あみだにょらい)は9番めの王子様、西方浄土に行くよう命じられました)はお父さんの大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)から「おまえは娑婆世界に行ってそこに居るものたちを救いなさい」とこの世に派遣されたのだ、とあります。だから、お釈迦様の願いは「一切衆生を仏にしたい」ということなのです。


 ところが、私の寺の総代が亡くなったとき、通夜で「ウチの部長が信仰に熱心だったとは驚いたな」という声を聞きました。今や「信仰」は当たり前なことでは無いようです。オウム真理教事件や、一部の過激な新興教団についての報道も、世間の無理解を助長しているのかもしれません。


 日蓮聖人は「人々を皆、仏にしたいという願い・仏の救い」が述べられた法華経の第16章、如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)の最後が「毎(つね)に自ら是の念を作す。何を以ってか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就する事を得せしめんと」とあることこそお釈迦さまの願いの結論だ、と理解され、これを一生の願いとして、その実現のため、私たちの心に必ず備わっているはずの仏種(仏になる可能性、仏となる条件)、仏性を心の中から呼び覚ます方法として「お題目を唱える修行」を教えられました。


 朝起きた瞬間から、私たちはたくさんの人たちの努力によって支えられています。最近の災害に遭われた方々は実感しています。水と電気が無いと、トイレにゆけない。水が飲めない。冷蔵庫の中のものは全部腐ってしまう。エレベーターは使えない。


 ところが「オレは一人で生きて行くんだ」「自分の思うとおり生きるのが一番幸せなんだ」「しょせん、人間は生きているウチが花よ。死ねばお終いだ。」→葬式を単なる「お別れ」としてしまった。とんでもない間違いです。


 ちょっと思い返してください。戦争が終わって70年以上たっても、一生懸命親の戦死した場所を探し、その魂を古里に持ち帰りたい、とがんばっている人たちがたくさんいますよ。


 「自分たちの命で古郷や家族を守りたい」「自分たちが死んで、この国が新しい進歩を歩み、後から来る人たちが素晴らしい国を造ってくれる」そう信じて死んでいった人たちの魂が天空には満ちているのです。


 目に見えなくても、親はいます。先に死んだ奥さんの墓にずっとやってくる人もいます。たくさんの人たちの、長年の努力があります。自分も何か他の人たちの役に立っている。もう一度良く考えて下さい。


 人間はそうやって自分の命も大きな流れの中にいることを実感して行くのです。そのとき、人は生きている幸せを実感するのです。


 日蓮大聖人は「そもそも地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたずね候えば、あるいは地の下と申す経もあり、あるいは西方(さいほう)等と申す経も候。しかれども委細にたずね候えば、我等が五尺の身の内に候と見えて候。― 我等が心の内に父をあなずり、母をおろかにする人は、地獄その人の心の内に候。― 仏と申すことも我等の心の内におわします。(重須殿女房(おもんすどのにょうぼう)御返事)」とおっしゃっておられます。


 たまにはお坊さんとしてお話をしてみました。どうか、皆様お幸せに。
 

2018年10月