平和の祭典である冬季五輪(ピョンチャン)からガラガラと韓国の文大統領の仕掛けなのでしょうか、それとも北の方が切実な事情があったのでしょうか、南北の急接近と、アマチュア大統領のトランプさんのせいでしょうか、北東アジアが急に動き出し、「ワシを忘れるな」と習近平氏も張り切り、ついにはロシアのプーチン大統領も乗り出してくるという、まるで「歴史の転換点」を思わせるような大騒ぎとなりました。


 金正恩氏は「千両役者」よろしく、あれほど嫌っていた習近平氏と再会談し、実務者協議を通じて、文字通りめいっぱい自国の利益確保に動き、トランプ大統領を激怒させて「米朝トップ会談中止」と言われ、あわてて「実は内心ではトランプ氏を尊敬していた」との「手のひら替えし」。ついにトップ会談が実現したのです。
 


 しかも、世界の平和より9月に迫った米国の中間選挙勝利を重く見、あわよくば「ノーベル賞」と、不動産屋からの脱皮を見せたいトランプ氏が北の核放棄をこれまでの約束で明示されていた「不可逆的」ほかの文言抜きで「約束した」ということにはなりました。これまで70年近く、切れ目なく実施され、北朝鮮にとてつもない圧力となってきた韓国軍と米軍との軍事訓練も「中止する」などの大サービス付きです。金委員長に平壌とシンガポール間の飛行機まで提供した中国は「ほぼ筋書き通り」の結果に大満足のようです。今後の成り行きが注目されますね。


 いずれにしても、どんな事情があるにせよ、本当に北朝鮮が核開発と遠距離ミサイルを断念し、日本から拉致されている人たちが帰ってくるようなことになればどんなにかうれしいことでしょう。日本は当面、国交正常化がらみの大規模な経済協力以外、北朝鮮が必要とする「見返り」を持っていません。「ジジ殺し」の金正恩委員長、スイス留学6年は無駄でなかったのかもしれません。


 もっとも、日本の政界は米朝首脳会談が実現するまでは財務省の公文書改ざんが明らかになった、大阪空港航路真下の、元産業廃棄物の廃棄場所に首相夫人もお気に入りの小学校を建設する話しで、払い下げ価格の値引きを6億円から対象範囲を拡大して8億円にしたたことが明らかになった事件と、獣医師会との天下り確保の見返りに、新しい獣医学部開設の申請は6年以上も書類の受理さえも拒否してきた文科省が、「特区」というウルトラCに渋々「1校だけ」認めざるを得なかった、いわゆる「モリカケ問題」が中心の話題でした。


 そして、日大アメフト部の危険きわまりない反則プレーを巡っての大騒ぎやら、またもや耳を疑いたくなるような幼い子供を性的衝動の犠牲とする犯罪のおぞましさと、どうもこの国の生き残りの根本に触れるような問題は脇に置かれてきたようです。


 そして、目が覚めるのには十分すぎるほどの衝撃を受けた、6月18日早朝の大阪地方を襲った大地震。


 この春、檀家の方々の協力をいただき、災害時の「危険通路」と見られていた墓地脇通路のブロック塀や万年塀の全面改修を終わったばかりだった『延台寺』。タイミングがあまりにも合いすぎて、内心ほっとし、改めて関係の方々に感謝の気持ちを強くしました。


実は前回、私がなぜ「延台寺」の住職になっているのかを書きながら、今、お寺は難しい時代にさしかかっているという説明に入りましたが、大きな社会変化の中で、お寺という存在、というよりも自分自身がなぜここにいるのか、何をして行かねばならないのかを、もう少し書かせて下さい。


 もう6月も中旬ですが、振り返ると今年3月後半の春のお彼岸もたくさんの方々がお墓参りにお寺を訪れ、ほとんどの墓地にきれいな花が手向けられ、新しい卒塔婆もたくさんたてられ、昔ながらの「亡くなった方と生きている方」との交流が続いていることに「有難いなあ」という思いを新たにしたばかりでした。


しかし、時は一瞬たりとも止まってくれず、例年よりも早く境内の桜が満開と成り、あっという間に風に散る花びらが雪のように舞う日々となり、「もうお釈迦様か」と4月8日の「灌仏会(かんぶつえ)」つまり、お釈迦様の誕生日がやってきて、しびれる膝をおさえつつお経の中でも一番大切だと言われている第16章、「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」を、昔毎月お経を勉強した檀家さんたちと一緒に読ませていただき、お釈迦様への感謝と私たちが人生をしっかりとまっとうできるように祈りました。「あと、何回このような桜の風景を眺められるかなあ」と思い、改めてお釈迦様の下に旅立つ自分を思ったりもいたしました。


 そして、5月27日は恒例の「虎御石祭り」晴天に恵まれ、盛大に行われましたが、大変な行楽日和でもあり、観光に出かけてしまった方々も居たようです。でも、大震災支援の基金も多くの人たちのご協力で又一歩進めることができ、大変ありがたく思いました。


 そして、今は梅雨です。


 だが、心配もあります。今またこうした流れは大きく変わろうとしているのかもしれませんます。仏壇がない家もできています。「生きている人のことを考えるので精一杯だ」「死んだ人のことまで考えていられない」と言う声を聞くのです。私たちは「死んだ」人たちのおかげで生きているんでしょう。


 ご自分が死ぬことを考えていない人たちも増えています。ついに人は原始時代のレベルに戻りつつあるのでしょうか。世の中の変化が激しくなり、その変化のスピードも猛烈に加速しつつあり、私たちが過去の人たちの智恵や努力の上に立って、それを積み上げ、より良く進化させつつ生きている動物なのだ、と実感できなくなってきてしまったのではないでしょうか。それって、ご自分自身を否定することになりませんか。


 
 悲しいことです。恐ろしいことです。ではまた。  

2018年6月