うっとうしい梅雨の季節ですね。と言っても、この頃の梅雨は、雨がしとしとと降ることはあまりなく、「もう梅雨明けか」と思っていると集中豪雨にやられたり、雷やあられ、竜巻と、ややこしい事になってきました。皆様はいかがでしょうか。


 うっとうしいのは人間の世界でもありますね。次々に起こる高齢者による悲惨な事故。かと思うと、相も変わらず幼い子どもを虐待によって殺してしまう男と女。


 そして、世の中は「百才時代」

 人が元気で長生きなのは結構なのですが、「お金がたりない」ということで、70才まで働かせよう、と政府も躍起になっているようです。お元気な方ならば70才までも働けるでしょう。私もヨロヨロと歩きながらもまだ働いています。


 でも、「余生」は自分のしたかったことをやる、とか、「何か人のためになる事を一つぐらいはやってみたい」はずのあなたが、「まだ働ける」と働かされ続けるとはちょっといかがなものでしょう。


 「あなた、何のために生きているんですか」
 「あなたの生きた証を残して行くんではなかったのですか」


 そういえば最近お寺に墓地を求めに来る方のほとんどが、「子どもには迷惑をかけたくない」と、まるで自分が生きていることが子どもたちの足を引っ張ることを心配しているように聞こえて、あまり良い気持ちになりませんね。


 「何で子どもにそんなに気兼ねしながら生きているのですか。」 
 「あなたは自分の子どもに何か悪いことでもしたのですか。」

 あなたは子どもを育てるときに、よっぽど「手を抜いて」子どもに迷惑をかけたのですか。


 「扶養の義務」を超えて、懸命に子育てしたのではないのですか。いな、自分を犠牲にしてまで育てたのではないのですか。


 それとも、外出時に着るものまで親子で争ったり、それよりも、子どもをほったらかして男に貢いだり、母親や父親として振る舞うのは不自然なほどの人生だったのですか。


 自分の子どもに「親は金をくれる存在」としか思われないような子育て期間を過ごしたのでしょうか。今や親の年金で生活する「子ども」が増え、「お父さんとお母さんが死んだら、ボクは生きてゆけない」と中年の「引きこもり」のかたがおっしゃっているとか。


 だれぞに、「ぼやぼやしてんじゃないよ!」といわれるような親子関係だったのですか。


 葬儀屋さんが小さな声で言ってました。「家族葬って普通のお葬式よりご遺族の負担がきついんですよ」


 「お坊さんはいただくものをいただけば良いでしょ」といわれれば寂しいながら黙ってしまいがちですが、「一体人の一生をどう思っているんだろう」って声が出そうになっているんですよ。


「命より大切な宝はない」とは日蓮聖人のお言葉だそうですが、どうか大切に生きていただきたいですね。


 「霊山往詣」とは、これも日蓮聖人の言葉ですが、私たちの魂は何万光年という広大な宇宙を自由にワープしてあるときは仏様の世界にあり、あるときは毎日暮らしている娑婆世界に立つことも有り、その大切な地上の標識が墓地であり、家の仏壇だといいます。もし、これが本当なら案外楽しいかな、なんて思います。


 「私は死後の世界は信じませんから」と、檀家になりたいと訪ねてきた某国立大学の名誉教授がおっしゃいました。私は「そうですか。私もまだ死んだ事が無いので判らないのですが」と応えました。


 もっとも、その先生は具体的にご自分の墓地の場所を決めるときは「絶対に亡き母の墓の隣でなくては困ります」といわれましたので、十分に死後の世界を考えておられることが判りました。だって、死んだら無に還るなら、どこだって良いはずなのに、「亡き母の隣」でなければだめ、とうかがってほっとしました。


 大宇宙を自由に飛び回りましょう。本当に仏様の国があるのならば、「ちょいとのぞかせていただきたい」なんて思いませんか。


 私はまず、先に死んだ猫や犬と会いたいと思っています。そして、このお寺を再建するとき、毎晩のように語り、酒を酌み交わした檀家の皆さんとも会いたいと願っています。もちろん父と母には改めておわび方々会いたいです。


 「戒名なんかいらない」と言う声も聞きますが、日蓮宗では法号と言って、「だれでもお釈迦様の弟子になれるんだよ」ということから付けられる、いわば仏様の国へのパスポート番号みたいな意味合いもあるので、それなりに価値があるものだとおもいますけどね。どうですか。


 まずはご自分なりにご自分の一生に一つでも意味を感じられるように生きていただきたい、と心からお願いいたします。

2019年6月