平和の祭典である冬季五輪(ピョンチャン)が開催され、世界各国の選手に混じって日本の代表も大活躍し、史上最高の13個のメダルを獲得するなど、私たちや地元韓国の市民、それにいろいろの国の人々に大いなる感動を与えてくれました。


 しかし、平壌に首都を構える、到底21世紀の国とは思えないような国に引っかき回されてしまったような思いも残りました。


 韓国の人々にとっては「北」にも親戚や、場合によっては家族が住んでいる人たちが百万人以上いる事を考えれば、「われわれは一つ」と歌われただけで涙が止まらないのは判ります。ただし、何よりも国連の安全保障理事会でロシア、中国まで含めて全会一致で決められた制裁の根元が肝心の韓国でぐらぐらしているのを見るのは不思議でした。


 20年に及ぶ「北」との話し合いで、二度までも「核開発はやめる。そのかわり」という「北」の言葉を真に受けて、巨額な援助を提供しながら、突如豹変され、いたずらに核兵器とその運搬手段のミサイル開発に時間と資金を提供しただけとなってしまった米国や日本で、またまた「話し合いでしか解決できない」というお定まりの声を聞くと、まずご自身で「北」に行って、「話し合い」で拉致されている人たちを連れて帰ってきていただきたいと心からお願いしたいです。 


 ちなみに、韓国にとって、今や米国よりも経済上のパートナーとしてははるかに重要である中国からは文大統領の度重なる要請にもかかわらず、次の冬季五輪は北京と決まっているのに、党の序列第7位の幹部が来ただけで、習近平氏はやってきませんでした。加えて、「半島問題を南北の民族だけで解決する、という姿勢が一番危険で、中国としては容認できない」と明確に懸念を表明しているのです。


 さてエラそうに語ってみましたが、足元を見てみると、何百年もたくさんの人たちによって守られてきた寺の今後が困った状況に立たされているようです。
 たまにはお寺のことも書いてみましょう。


 早いもので、私が檀家さんや先代住職の知人、友人、そして日蓮宗のバックアップによってこのお寺の住職にしていただいてから早くも40年が経ってしまいました。これは先代住職であった私の父が悪性の病に苦しみ、65才でこの世を去ってしまったからのことでした。


 それまでの私は東京の(社)日本新聞協会で主として報道界の国際交流事業を担当する職員でしたが、就職する前の大学院生の頃から、いくつかの大学の学生やアジア各国からの留学生などによる「アジア青年連絡会議」というグループを結成し、アジア各国と日本の人々の間に本当のことを伝え合える情報ネットワークを作ろうとしていました。


 公式なルートで伝えられる情報は、当時、日本がほとんどのアジア各国にとって一番大きな経済的な支援国となっていたこともあって、「本当のこと」が伝えられにくい状況にありました。加えて、日本人はあまりアジアやそこに住む人たちに関心もなく、米国の方ばかりを向いている状態でもあったのです。


 思い立って1968年、実際に一人旅でインドネシア等を訪問してみると、いわゆる「文化大革命」直後だったのにもかかわらず、どこでも中国系市民の人的、経済的なネットワークがそれぞれの国の経済に支配的な影響を与えているすごさを見せつけられました。


 帰国後、アジア各国の留学生や、現地でお世話になったインドネシア、タイ、シンガポール、ホンコン等の人々と共同作業で「太った日本人」と「驕れる日本人」(いずれもダイヤモンド社刊)を出版しました。それなりに反響をいただいたのですが、サラリーマンとして仕事上もアジア各国の記者たちとの交流を続けていた私以外は、サラリーマンとなった仲間たちはだんだんに参加が難しくなり、といって現役の学生には明確なイデオロギーを避けたグループ造りは当時の東西冷戦まっただ中では、魅力的ではなかったようです。


 その後もニューズレターを発行したり、勉強会を開いたりがんばりましたが、25年あまりで、活動は年2回の飲み会を留学生会館で開催し、出会いを求めるアジアと日本の人々の橋渡しになればという状況となり、ついに休止状態になってしまいました。


 ま、そんな中で「住職」としての出番が回ってきたのです。仏様にはまことに申し訳なく、冷や汗のかき通しでした。しかし住職になってみると、当時の建物は明治の大火で焼けてしまった建物を柱とトタンで再建したような状態で、簡単な修繕などではどうにもならない状態でした。


 60~70軒の檀家しか持たなかったお寺には到底一億円以上と見積もられた再建の経費を作り出す見通しも立たず、当然のことながら再建に否定的な檀家さんもおられ、決断には私なりの「必死さ」もあったと思います。まずやったことはできるだけたくさんの檀家さんを巻き込むことでした。20人以上の「役員」を作るだけでなく、頻繁にお寺で会合を開き、仕事を終わってから東京から駆けつけ、会合の後はお寺に上がった酒を振る舞い、仲間作りに励んだのです。ここで、様々な職業、年齢の人たちと語り合い、いろいろと教えてもらいました。この方々が後々までお寺の宝となったのです。


 そして、檀家総会で再建の方針を認めていただいてから一年で、多くの方々の格別のご協力、良心的な宮大工さんの、こちらの「懐具合」に合わせた設計をもらい、再建計画がスタートしました。


 地元の金融機関からは3千万円の借り入れを予定して利子として1千万円を見込みましたが、実際には檀家さんや父の友人、親戚など様々な方たちのご協力をいただき、借入金ゼロで本堂・書院・庫裡(私たち家族の住居部分)が昭和57年5月に完成しました。


 以後もお寺からの収入の大部分を積み立てし、山門、水屋、そしてお寺(延台寺)の目玉である曽我堂(鎌倉の伝説の舞姫、虎御前の庵跡)を純木造銅板ぶきで建て、「お一人様」でも生前予約で永代供養を請け負う納骨堂、それに今や家族の一員となってきたペットの墓苑を整備し、墓地の整備も完成させました。


 この間、「少しでも地域の賑やかせに」と檀家さんたちと度重なる会合を重ね、どなたにも開かれたイベントとして「虎御石まつり」をスタートさせ、小さな寺ですが、多いときには一日で千人の参拝者を呼ぶイベントが育ちました。毎年地元のケーブルテレビでも取り上げてもらい、神奈川県の観光協会が「5月の行事」として紹介してくれるイベントとなりましたが、東日本大震災が起こってからは、毎年お経を上げるお坊さんからの寄付、賽銭の全て、それに東北の産物即売会などで津波遺児のための基金や、地域振興のNPOなどを寄付しています。


 伝統の10月の「お会式」も地元の若者たちを中心に「講中」を結成して、夏から太鼓やマトイの稽古をし、遠くは横浜から片瀬、茅ヶ崎などの「お会式」に参加して行列に加わり練り歩き、自分の寺の「お会式」も2百人以上の行列で、夜の街の祭りを盛り上げたものです。


 この間、20年以上にわたって毎月一回参加費無料で「法華経を読む会」という勉強会を続けました。使用したテキストは岩波文庫の「法華経」(上中下)の拡大コピーと私の手書きのレジメを使いました。序章から最終章の第28章まで10年ほどかかりました。これを繰り返したのです。


 檀家さんだけでなく、「関心のある方はどなたでも」と始めたのですが、地元の共産党議員だったご夫婦が熱心に参加されたのには驚かされました。この方は後に身延山にも参拝され、日蓮聖人のご草庵蹟では合掌されておられました。そして、娘さんが結婚される直前には娘さんもこの会に出席され、「良かった」との感想を漏らされたそうです。


 もっとも、その後風の便りでは党を除名されたとも聞き、複雑な思いをしたことを覚えています。一体、参加された方々に「法華経」には何が書いてあるのかをどの程度ご理解いただけたのか判りませんが、毎年4月8日のお釈迦様さまの誕生日にはこの会の卒業者の内5~6人が私と共に法華経の内、その中心である第16章を全部読み上げてお釈迦さまに感謝の心をお伝えしています。それにつけても、今思えばこの会は何よりも私自身の勉強のためだったと思うばかりです。


 さて、お寺再建が一段落したときには、私自身がもう60代半ばとなっていました。結局、再建費用の半分近くは私が東京で働きながら負担したことになったようです。今でも毎年お寺には百万円内外の寄付をしています。なかなか「坊主丸儲け」とは成らなかったのです。でも、うちのお寺はたくさんの方々にとって、たんにお葬式や法事をする場所ではないと思います。


 まず、今日はこの辺にしておきましょう。

2018年3月