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 気がつけば、という常套句も使いづらくなってしまいました。今年も余すところ15日をきってしまいました。9月のお彼岸の頃には「遅くも10月のお会式までには書こう」と思いながら、お会式はあっという間にやってきて、いつものことながらお天気に一喜一憂し、それでも皆さんの献身的な努力で無事終了。



 翌日の本門寺での法話も大いに笑っていただいてお勤めできました。「さあ」と思ったときに私の心に大きく引っかかっていたのが先代住職が大磯町の町長だった頃からの友人で、引退後、ドイツのライン川沿いの景勝の地、バッハラッハというユネスコの文化遺産に登録されている小さな町に住んでいる方に会っておかねば、という思いがいよいよ増しておりました。



 その方、ハンス・スワーさんは父がドイツ人、母が中国人で、上海生まれという方です。金銭登録機の組み立てや修理に精通していて、革命成立後の中国で共産党の監視下でも活動を続けることができ、日本の法人が設立されるとその常務取締役となり、日本および極東の生産拠点として大磯工場完成に尽力し、町にも多大な貢献をされ、米国の本社があるデイトンと大磯が姉妹都市となるときには全面的にこれをバックアップした方です。



 その20年以上にわたる大磯での「企業市民」としての貢献を評価され「名誉町民」となりました。


 ちなみにこれまで大磯の名誉町民となった方々には島崎藤村、高橋誠一郎、吉田茂さんも含まれています。



 さて、スワーさんですが、2年前に最愛の妻リーゼルさんをガンで失い、ご本人も90才を超え、1年前にいただいた手紙では私と父がごっちゃになっていたり、大変心配にもなったのです。「お元気なうちにお目にかかりたい」という思いがつのり、一人旅を決心しました。



 事前に京都大学に留学していたお孫さんからは「祖父は驚くほど元気です」とのメールが届いていましたが、「ともかくお目にかかれれば」との思いで飛行機に乗りました。多い年は毎年8回程度はヨーロッパの様々な都市に、報道・情報産業関連の国際団体役員会などに出席のため出張していた私ですが、なぜかドイツにはご縁がなく、今回が初めてのドイツ訪問となりました。



 フランクフルト空港について空港ロビーに出てくると、なんと、そこにスワーさんご本人がいたではありませんか。車いすにも乗っていませんでした。思わず90才と72才の老人は固く抱擁してしまいました。正直なところ驚きもしましたが、それ以上にうれしかったのです。



 娘さんのマリオンさんは神戸生まれ、横浜育ちで、早稲田大学を卒業している自称「ハマっ子」で、「高田の馬場のごちゃごちゃしている町の様子が忘れられない」とも言っておられました。



 マリオンさんは長いことヨーロッパで取材する、主としてNHKの番組、例えば「NHK特集」とか「クローズアップ現代」などの製作にも関わってきたということで、私が滞在中もNHKから「シリアからの難民」の受け入れについて調べてもらいたい、という依頼の電話がかかっていました。


 ただただ、「父以来の友人だったスワーさんにお目にかかり、お話ししたい」と願って出かけていったドイツでしたが、娘さんご夫妻を始め、息子さんのご家族、お孫さんたち、ひ孫さんまでが歓迎してくださったのには心の底からの喜びを感じました。



 ライン川周辺の丘陵地帯は一面のワイン畑で、前面黄色の葉に覆われた、ブドウを収穫した直後の、急な斜面の道をスワーさんが先に立って案内してくださったのには驚かされました。人口が2500人と、大変小さな町でしたが、中世の城が四つも残っていて、街そのものが中世の趣を残し、地域全体がユネスコの世界文化遺産に登録されているとは全く知らないままで出かけたのです。



 学生の街ハイデルベルクでの散策や大聖堂でのチャリティーコンサート、夜には地元名産のワイン片手に市長との懇談もありました。その場所が、かつて、海外旅行が珍しかった時代に、あの「世界の旅」という番組で私たちをわくわくさせてくれた兼高かおるさんが3回も訪問したことがあるレストランだと知り、その写真とサインに思わず見入ってしまいました。



 スワーさんの家の居間は前面がぶち抜きの大きな窓で、眼前をライン川が右から左へ横切っているという絶景ポイントでもありました。そんな素晴らしい場所で、二人だけになったとき、スワーさんがこもごもと3時間にわたって語ってくれたのは、敗戦から今日までのドイツの運命でした。陸続きの大陸でいくつもの外国と接している厳しさをひしひしと感じました。「日本のおかれている環境よりも遙かに厳しい」というのが実感でした。「日本はサンフランシスコ平和条約を結んだが、わが国は、未だに平和条約を旧連合国と結んでいない」と言われたときは自分の知識不足と想像以上の現実を教えられ、言葉を失いました。



 マリオンさんのダンナはミュージシャンで、英語はそれほど得意ではありませんでしたが、ドイツがシリアからの難民を今年だけで百万人受け入れる事を決めたと聞き、しかも、各都市や地方の人口に案分して受け入れ人数も決まっている、と説明されたときには「そんなことできんのかよ」と素朴な疑問がわいてきて、「例えば百万都市だとしても、そこに一万人以上が入ってくるって事は大変なことでしょ。国民に抵抗感はないの」と、聞いてしまいました。



 「ないんだ。みんなそれが当然だと思っているから」とこともなげに答えられると、「ちょっとカッコウつけてんじゃあないか」などとかんぐってしまう私でしたが、はっと思い当たりました。第二次大戦であれだけの大量虐殺を計画的に実行してしまったドイツとしては国民も「そのくらいは当然負担し、受け入れるべき」と受け止めているのか、と思ったのです。


 日本では70年前、あれほど「戦争はイヤだ」「二度と戦争をやってはならない」と痛感していた先輩たちでした。進駐軍の車列の直前を横切って転んでしまい、危うく命を助けられた3才の私。


 とりあえず「陸、海、空の戦力は持たない」「国際間の紛争を武力で解決しない」と憲法にも明記して再出発した日本ですが、なにか「このくらいで許して頂戴」という気分もあったのかなあ、等と愚考してしまいます。



 ご存知の通り、現実の日本は敗戦直後から東西冷戦のまっただ中で、何年も経たないうちに朝鮮半島は北からの武力侵攻で釜山まで危うくなり、激烈な朝鮮戦争(韓国では韓国動乱と呼んでいます)が起こりました。詳細はソ連崩壊後、ソ連の公文書が公表されています。私はもう30年以上前になりますが、偶然仕事で福岡から九州を巡って、東京まで旅行した韓国の新聞社の幹部で北朝鮮出身の方から、5時間以上にわたってご自身とご家族の苛烈な運命と、生々しい体験を聞かせていただいたことがありました。


 皮肉なことに、この当時、経済が麻痺寸前だった日本は朝鮮「特需」に沸き、経済は成長路線に乗ったのです。その後、ベトナム特需もあり、それら地域の人々の苦難を横目で見ながら、日本の「平和」は確保されました。ベトナムでの大量の軍用トラックが日本製だとはあまり報道されていませんでした。


 その後、第二次世界大戦で「ヨーロッパをナチス・ドイツから救い、民主主義社会の守護神」を標榜した米国は世界各地で紛争に巻き込まれ、あるいは紛争といっそうの混乱を引き起こし、2001年のニューヨーク、ワシントンでの同時多発テロ以降は迷走を続け、国内も様々な社会問題を抱えて苦しむようになったのはご承知のとうりです。


 今年の日本は「集団的自衛権を一部容認する」ための法改正を巡って大きく揺れ、久々に国会のまわりも賑やかになりました。しかし、それが一段落するのを待ていたかのごとくに、しばらくおいてパリは同時多発テロのため200人以上の犠牲者を出しました。その最中、「自称イスラム国ことISを壊滅させるため」結成されたフランス、米国、ドイツ、トルコなどの「有志連合」に、多くの国からの非難を無視してクリミヤ半島を武力統合したロシアが「共にISを打倒する」と加わろうとしました。しかし、ロシアはちゃっかり自分たちの権益確保のためシリアのアサド政権を守ろうとし、トルコのF16戦闘機に自国爆撃機を撃墜され、なにやらむちゃくちゃな状況です。


 70年前に第二次世界大戦が終了してから今日まで、一体何日世界中で銃声が鳴らなかった日があったでしょう。そんな中、とにもかくにも日本人は直接外国の武力集団と直接兵火を交えることを免れ、今日まで「日本には軍隊はない」などと言い続けて来ることが許されてきました。


 ところが、日本の多くの国民が拉致されたまま北朝鮮から帰国できないでいる状況は、今やまったく膠着状況に陥っているようですね。「国際間のもめ事は話し合いで解決すべき」と主張する方々には是非ISの支配地と北朝鮮におもむいて、しっかりと話し合い解決をお願いいたします。


 私にも判ることは人間には様々な欲望があり、「仏様の心」が自分の心にそのまますっきりと入ってこないこともある、ということです。「坊主はお経を唱えていればいいんだ」とおっしゃられれば、そうもいたしたいところではあります。このまま今年もくれてしまうのでしょうから。


 初めて訪問したドイツで、「日本はいい。ドイツはまだ平和条約を結べていないのです。第二次大戦終結から70年。いまだに英国や、その他の国の軍隊がわが国の中に駐屯しているのです」と聞かされて驚きました。新しい年こそ、世界中の人々が平和なうちに、幸せに暮らせる時代に近づいてゆけることを心から祈るばかりです。


2015年12月