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 日蓮宗の寺院で行われる「お会式」とは、宗祖、つまり、日蓮大聖人のご命日を、 この上なく賑やかにもり立て、私たち一人一人の魂の仏様への旅を祈る法要と、「法華の太鼓」のきわまった行事です。以前にも書いたと思いますが、毎年延台寺でも昼間の法要に続いて夜は「壱楽睦」講中の連中による、賑やかな万灯、太鼓練り供養です。

 10月13日は延台寺の「お会式」でした。かつては10月10日[体育の日]と決まっていたのですが、祝日が移動してしまうようになってから苦労しています。今年は超大型の台風19号が迫ってくる中、纏を振り立て、太鼓を打ち鳴らしての行列を実施するのか中止するのか、地域の3時間単位の予報や様々な予報をチェックしつつ、講中の連中の判断を尊重して、実施の1時間ほど前に実行することにしました。

 太鼓と纏の奉納は無事終了しましたが、多くの檀家さんが参加している上、行列終了後の後片付けもあり、すべてが予定通り終了し、皆さんが家路についたときは本当にほっとしました。こういうことはくり返し経験したくないところです。

  さて、その翌日の午後、私は前日とはうって変わって晴れ渡った羽田空港から熊本に飛びました。日蓮宗が長年取り組んでいる人権活動の行事に出席するための出張でした。目的地は熊本市の「菊池清風園」という、最近まで法律によってハンセン病の患者さんを強制隔離していた国立の施設です。そこで「お会式」を行い、園内の納骨堂で慰霊法要を行うためでした。

 先頃、天皇皇后両陛下が全国すべてのハンセン病施設を訪問され、患者さんを慰められた、という新聞記事を読んだ方もあると思います。かつて、ハンセン病は怖い伝染病と誤解され、一端患者と認定されると、法律によって、年齢・性別を問わず、強制的に家族からも隔離され、全国12カ所の施設に連れて行かれ、死ぬまで外に出ることすら許されなかったのです。

 実は、ハンセン病は伝染力が極めて小さな病気なのですが、人体の皮膚組織を破壊してしまうため、「恐ろしい病気だ」「不治の病だ」「先祖のたたりだ」等と誤解され、恐れられたのです。今では良い治療薬もあり、簡単に直る病気になってしまいました。しかしながら、患者さんの受けた苦しみは筆舌に尽くしがたく、また2世紀にまたがって、長く続きました。小泉内閣の時、国が誤りを認め、法律を廃止して患者さんたちに謝罪・補償することで一応決着した事はご記憶の方も多いでしょう。ところが、世間の理解はまだまだで、一部には根強い誤解が続いているようです。

 「菊池清風園」はきれいに整備された広大な敷地に、未だに300人近い元患者さんが生活しています。今では清潔な建物やコンビニまで作られ、入り口も自由に出入りできるようになったため、敷地内には幼稚園も開設され、元患者のみなさんも、かわいい子供たちが行列する姿に心を和まされているようです。

 ここに収容された人々は絶望の中、心の救いを宗教に求めた人たちも多く、園内には日蓮宗ばかりではなく様々な宗派、キリスト教などの礼拝施設が点在していたそうです。死んで苦しみから解放された後、自分たちの魂はどこに行くのか、真剣に考えられたようです。今では同じ集会所にたくさんの宗派や宗教の礼拝壇がならべられてあり、私たちは熊本の日蓮宗行政組織のトップの方を導師・式衆とし、人権委員会の委員長と委員や熊本県から選出された日蓮宗全国会議の議員を参列者として、宗祖の「お会式」を立派に行いました。すべての僧侶はボランティアとして参加したのです。

 その後で、一同は園内の納骨堂に移動しました。内部にはむき出しの小さな骨壺がびっしりと並び、一つ一つに生前の名前と亡くなった日(命日)が書いてありました。ところが、二つの名前が書いてある壺がたくさんあることに気がつきました。「んっ?」
ある方は日本名の脇にカッコ書きで、明らかに朝鮮半島もしくは台湾の方と思われる名前がありました。その理由は明らかでしょう。でも、カッコの中も日本の名前だった時、胸が詰まりました。

 「なぜ、日本人が日本の別の名前を名乗っていたのか」当時、偏見の激しい頃は、自分の家族からハンセン病の患者が出ると、「家族みんなが差別される」「一族の恥だ」などの理由で、「今後一切ウチの一族とは名乗らないでくれ」と古里から拒絶されてしまった人たちがたくさんいたのです。

 これまでに納められたご遺骨が1295柱。内過去一年で亡くなった方が25人だったそうです。二つの名前が書かれたご遺骨には最近亡くなった方がたくさんおられました。 ということは、「ライ予防法」が廃止され、元患者の方々は自由にどこへでもいけることになったのですが、夢にまで見た故郷に里帰りを果たした人たちもたくさんいる中で、この納骨堂には、明らかに古里の墓地に入れない人たちが未だにたくさんいることが示されていました。

 清風園の中には「火葬場跡」という標示もあり、死んでも一般社会に出してもらえない人々の絶望があったのです。そして、今なお、そこに眠る人たちは、たとえ墓地の中とはいえ、元の家族とは一緒に眠らせてもらえない絶望を私たちに訴えていたのです。

 読経が終了したとき、私の隣の人権委員会の委員で、元学校の先生という女性のお坊さんは涙が止められませんでした。「教師時代、ハンセン病については子供たちに教えていたけど、こんなむごいことになっていたなんて」

 園内にはかつて施設の職員に反抗的な人などを閉じ込めて懲罰した古い建物が保存されていました。扉を開けると何とも異様な臭いが残っており、独居房のような太い格子がはまった区画にはそこに閉じ込められ、食事も制限された人々の恨みが込められているようでした。

 でも、皮肉なものですね。かつて墓地は一部の権力者などにしか許されず、一般の人は死ぬと集落の外れの大きな穴に投げ込まれていたということは、青森県の三内丸山古墳などを観ればわかります。それが、今では誰でもお墓を持てる時代になったのに、「お墓は要らない」なんて、散骨やら「樹木葬」なんて、縄文時代に逆行するような考えの人まで出てきています。

 ハンセン病で苦しめられた人たちが知ったらどう思うでしょう。死んでなお渇望している故郷の墓は、ひょっとしたら、もう「墓じまい」でなくなっているかもしれないなんて。その人たちの魂に改めて心からの供養を捧げるものです。                              

2014年10月