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 3月はお彼岸を挟んで宮城県と岩手県の被災地を尋ねました。宮城県では40年以上前、たまたま同じ病院に入院していた方で、千人近い大きな犠牲を出した山元町に住んでいた友人を、妻とともに訪ねるのが第一の目的で出かけました。

  震災後、やっと通じた電話で、友達の奥さんからは家族全員無事だったが、家は一階をやられ、ボランティアの力で瓦礫を撤去できたのは6月過ぎだった、と伝えられていました。しかしながら、震災からしばらくは沢山の方々の遺体も目撃したということでした。

  現在は仙台近くの多賀城市で弁当屋さんをやっているのですが、そこで元気な友達と奥さんに会えました。

  しかし、それに先だって尋ねた山元町の自宅は、一年がたって、ようやく大工さんが修理に入っている状況でした。雪の降りしきる中、海岸近くにも行ってみたのですが、小川にかかる小さな橋のガードレールは激しくゆがみ、流木が詰まっている様子が、積もっている雪の間から見えました。はるかに瓦礫の山が続く中を進み、今や電車が走っていない常磐線の線路をまたいで、元は水田地帯かと思ったところを走ったのですが、実はその辺はイチゴ農家の豪華な家々が並んでいたところと知りました。できたことと言えば、瓦礫の山に向かい、雪の中で線香を焚き、お経を読むだけでした。

  翌日、「いけるところまで」と出かけたのが死者・行方不明5千人を出した石巻市です。ここは最も大きな被害を受けた地域ですが、この地域でNPO「石巻復興支援会」を組織してがんばっている若いお坊さんのいる法音寺というお寺にご挨拶に立ち寄るつもりでした。

  ところが、到着してみるとご住職や奥様までも待機していてくださり、震災当日から2百人の人々を受け入れ、奥様のお父さんが津波で亡くなったのにひるまず、常備していたお米を薪で焚き、おにぎり200個を作り、それ以降、百日以上奮闘したお話をうかがいました。
  小高い丘の上の墓地ではご住職から、震災当日、津波が眼下の入れ込んだ湾の奥に迫り、流れてきた住宅が次々と巨大な鉄橋にぶつかって、隣に雷が落ちたような、轟音が鳴り響いたとうかがいました。また、大津波は遙か町並みを全て飲み込み、2キロ以上遠くの山裾まで到達したと説明され、ただただ驚くばかりでした。
  また、仙台への帰路、いまだ地盤沈下で水没している旧住宅地を案内されましたが、国がここを「居住に適する地域」と指定したと聞き、「水の中に住めというのか」と、あきれるばかりでした。
  廃墟と化した小学校に涙し、延々と続く海岸道路を進みましたが、幅広の分離帯と思ったところが震災までは松林だったと聞き、仰天いたしました。何もかもが強大な自然の力を示す光景で、言葉を失いました。
  月末、20人ほどのお坊さんのグループで出かけた南三陸町市役所跡では一同持参した卒塔婆を建て読経しましたが、フト目を開けると、様々な係の窓口が並んでいたはずの一階ロビー付近に、折れ曲がった鉄骨などの瓦礫に混じって、車の残骸が2台残されていました。この場所は海抜数メートルです。ところが市役所やその前庭の建物が震災当日まで避難指定所となっており、大地震発生後、沢山の人々がこの2つの建物に避難してきて、ほとんどの方が亡くなってしまったと説明され、暗澹たる思いにかられました。
  釜石では700人もの人々が逃げ込んだ仙寿院というお寺にもうかがいましたが、大地震が発生したとき外出中だった住職夫妻は津波の来襲する一分前にようやく寺に戻れたのだそうです。まさに危機一髪ですね。当日だけで山門へ登る階段の途中まで瓦礫に混じって5人の遺体が流れ着いたそうです。津波にのみこまれた瞬間、ほとんどの方が亡くなったとも教えられ、改めて亡き人々の魂安かれと祈りました。震災二日目、ようやく届いた食料が小粒のにぎりめし250個だったということで、住職は瓦礫を乗り越えて食糧確保に奔走されました。気がつくと、足に釘が7本も刺さっていたそうです。
  被災地では一年が経っても、いまだ行方不明者が3千人以上いて、亡くなった家族の葬儀もできないでいる方々がいるという話をうかがいました。生き残った方々の日々の苦しみに、なんとも言いようのない思いにさせられました。

  被災地の人々はみな一生懸命再建に向かおうと努力されています。でも、通常の廃棄物百年分といいう膨大な瓦礫の山を眺めながら、どこまでも続く廃墟と土台だけが残った町並みの跡を移動していると、再建までの厳しい道のりを思わずにはいられませんでした。「なんとか、少しでもお力になりたい」と思います。

  でも、ここまでのはなしは「大変だなあ」とか「なんとお気の毒な」という感じ方をされた方もおられると思います。ところが、最近になって、実はこれはよそ事ではないらしいということが解ってきましたね。

  東日本大震災はこれまでのあらゆる想定を越え、研究者たちにも大変なショックを与えましたが、同時に膨大なデータを残したのです。この検証が進むにつれて、震災は終わったわけではないことが明らかにされてきたようです。科学者の想定、といいますか仮説はことごとく外れてしまったわけですが、今回のような大津波が起こったメカニズムがようやく明らかになり、日本海溝周辺のプレートの状況が一層不安定になっていることも明らかになってきました。そして、これまで発見されていなかった、過去何回も日本の各地を襲った、とてつもなく巨大な大津波の証拠が続々と発見されているのです。それらのデータや証拠を積み重ねたところ、これまでの想定を遙かに超える規模で九州、四国、東海そして関東を、巨大な地震と津波が襲ってくる、と報道され始めたではありませんか。

  むかし読んだ、小松左京さんの「日本沈没」というSF小説がにわかに現実のものと思えるようになりました。鹿児島、高知、神戸、大阪、名古屋、浜松、静岡そして神奈川県、東京と、日本の太平洋岸をほとんど根こそぎにするような大震災が起こるというのです。
  このお寺がある相模湾中央に位置する大磯町にも最大9メートルの津波が到来する可能性があるという予想マップも目にしました。「じゃあ、お寺は避難所というより、津波で破壊されてしまうかも・・・・・・・」「諸行無常」なんて気取っている場合じゃあないですね。

  4月8日はお釈迦さまの誕生日です。毎年この日、全国の寺々は右手で天上を指したお釈迦さまの像を置き、人々はこの像に甘茶を注ぎ、幸せを祈ります。私のお寺でも百年以上前に作られた欅造りの小さなお堂を本堂前に飾り、お祝いをいたしました。本堂前の70年以上経った桜の巨木2本が8分咲きで、このようなときでも、自然は春の到来をゆったりと伝えてくれました。もう一度、私たちは自分の命、家族、ご先祖様、それら全てを包み込むお釈迦さまの大きな慈悲の心をかみしめ、幸せをいのりたいですね。

2012年 4月