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 私の寺がある大磯は明治維新以後、初代の首相、伊藤博文が滄浪閣(そうろうかく)と名付けた屋敷を構えたこともあって、次々に政府の要人を始め様々な著名人が居を構え、一時大変なにぎわいを呈したということです。
特に戦後は、日本の独立回復を実現し、7年以上も総理大臣としてこの国をリードした吉田茂氏が住んでいたことから、日本中で話題にもなった町です。

実は大磯には伊藤さんから吉田さんまで、8人の総理大臣が住んだことがあるのですがその中でも吉田さんはこの国にとって大恩ある方であり、吉田邸は将来に受け継ぐべき大切な建物だと思ってきました。
それは単に戦後一番長く総理大臣をやったからということではありません。


戦前から、ドイツとの同盟が英米と敵対するすることになり、ヒットラーと同盟することは日本の破滅になる、と説きつづけました。また、当時の米国のグルー駐日大使に昭和天皇を始め多くの日本人は英米との関係を重視し、民主主義社会を大切に考えている、と説き続けたのです。
残念ながら、吉田さんは戦争の阻止には失敗しましたが、グルー大使に説き続けた「天皇は英米との友好を望み、ヒットラーのような戦争狂ではない」「日本は英米と友好的になれない国ではない」「多くの日本人は決して狂信的な人種ではない」ということが、結果として戦争に負けた後の日本を救ったのです。


真珠湾攻撃後の米国世論は
「日本人は野蛮で危険な人種だから皆殺しにすべきだ」「日本人は皆狂信的な国家主義者で到底他国の人々と友好関係を持てない人類の敵だ」といった極端な意見が多く述べられていて、「日本を破ったら、天皇を処刑し徹底的に日本を破壊し、永久的に日本の復興を認めてはいけない」という極論まで支持されていたそうです。

そうしたとき、日本から交換船で帰国したグルー大使は「お前は日本の回し者か」等と非難される中、全米各地を周り、多くの人々に「天皇は常に英米との戦争を好まなかった」「日本人は狂信的な国家主義者ではなく、軍部の独走を排除できればアメリカを始め世界の国々と民主主義の国として仲良くやって行けるだろう」と説いてくれたのです。

政治家としての吉田さんにはいろいろな批判があり、また、講和を実現するために米国の軍隊を独立後の日本に駐留することを提案して再軍備を先延ばしした事についても、学者などには否定的に言う人もあります。

でも、吉田さんが私たちが住んでいる今の日本を実現する上で果たした功績はとうてい否定できないでしょう。吉田邸は首相引退後も様々な場面で日本の戦後史の舞台となりました。 吉田さん亡き後も大平首相(当時)とカーター米大統領(当時)との首脳会談も行われました。その歴史的な建物が県立公園として整備する計画がスタートする直前の3月22日、 消失してしまったのです。

最近の世の中では、「自分のことさえ良ければそれで十分だ」「今のことだけ考えれば良い」こうした考えを受け入れる人も多くなっているようです。
でも、これは人間以外の動物のレベルでしょう。
人間は他の動物とちがって、多くの人々、それも今はもうこの世にいない人々の真剣な、ある場合には命がけの努力のおかげの上に立って生きている動物でしょう。

あなたは食事を手づかみで食べますか。食事は自分で獲ったり造った材料をナマのままで食べるのですか。あなたは一切衣類を身につけませんか。あなたはどこへ行くのも自分の足で歩いてゆきますか。
そんなことはありませんよネ。なにかしら、今の日本は人間を止めてほかの動物の社会へもどって行くようで悲しくなることがあります。

火事の当日、吉田邸の焼け跡で会見した松沢県知事は
「予定通り旧吉田邸は県立公園として整備する。消失した建物については最大限地元の意向を尊重して対処する」
と明言しました。これに対して、
「本物には及ばないが、忠実に建物や調度類を再建すれば、今の日本、今の大磯にとっても、将来の若者たちにとっても、自分たちがなぜ今ここに居られるのかを考える上でも大きな意味がある。再建すべきだ」
と、町の指導者や多くの大磯の人たちはそう思い、決意を固めました。

ところが、町が制定し、全国からの寄付や支援の窓口を造ろうとした条例案は町の議会で一票差で否決されてしまい、各地からの寄付の申し出が中に浮いてしまっています。
私は一介の僧侶ですが、大磯町民でもあり、大学で若者たちにエラそうに「自分の立ち位置を知れ」などと講義しています。このような事態になって、求められても何もしない、というのでは申し訳ないでしょう。
幸い議会はもう一度条例を検討するようです。それが具体化するまで、民間による暫定的な窓口を造ろうという構想があがっています。しばらくの間、ちょっと忙しくなるかもしれません。

2009年5月